司馬防

曖昧さ回避 司馬望」あるいは「司馬楙」とは別人です。
司馬防
後漢
京兆尹
出生 建和3年(149年
司隷河内郡温県
死去 建安24年(219年
拼音 Sīmǎ Fáng
建公
諡号 舞陽成侯
主君 霊帝 → 少帝弁 → 献帝
西晋の宣帝司馬懿の父
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司馬 防(しば ぼう)は、中国後漢末期の政治家。建公。司馬防の孫、司馬亮の6世孫にあたる司馬准(中国語版)が建てたとされる石碑[1]に拠れば、諱は芳(司馬芳)、字は文豫[2]司隷河内郡温県の人。父は司馬儁。子は司馬朗司馬懿司馬孚など8人。

生涯

性質は質実剛健、寛いでいる時も威厳を崩さなかった。息子たちは成人した後であっても、言いつけがなければ部屋に入ることも、座ることも、発言することも許されなかった。

尚書右丞の官にあった時、孝廉に挙げられていた若き日の曹操を、洛陽北部都尉に起用した[3]

初平元年(190年)には治書御史の官にあった。董卓が後漢の実権を握り、洛陽から長安への遷都を強行したためそれに従うことになったが、長男の司馬朗に命じ家族は帰郷させた。

州郡に取り立てられ、洛陽県令京兆尹を歴任。老年になると騎都尉に転任した。自分の生き方を守り、村里にて門を閉ざして晩年を過ごした。

曹操は後漢の実権を掌握し、魏王にまで昇ると、に司馬防を呼び寄せて共に飲食を楽しんだ。曹操は司馬防に、今でも自分を尉に推挙するかと聞いたところ、司馬防が「昔、王を推挙した時は、その官職がちょうど良かったまでのことでございます」と答えたため、大笑いしたという[3]

建安24年(219年)、71歳で没した。魏帝曹芳の時代にあたる正始3年(242年)、子の司馬懿の功績を嘉し、舞陽成侯と諡された[4]

一族

先祖は末の殷王司馬卬。曽祖父の司馬鈞はその8代後の子孫で、征西将軍の官に昇った。祖父の司馬量は豫章太守、父の司馬儁は潁川太守を務めた[4]

8人の子は皆優秀で、全員が字にの字を持っていたため、司馬八達と呼ばれた[5]

  • 長男 - 司馬朗(伯達)
  • 次男 - 司馬懿(仲達)
  • 三男 - 司馬孚(叔達)
  • 四男 - 司馬馗(中国語版)(季達)
  • 五男 - 司馬恂(中国語版)(顕達)
  • 六男 - 司馬進(中国語版)(恵達)
  • 七男 - 司馬通(中国語版)(雅達)
  • 八男 - 司馬敏(中国語版)(幼達)

出典

  • 陳寿『三国志』巻15 魏書 司馬朗伝

脚注

  1. ^ 1952年に西安市にて発掘された「司馬芳残碑」。西安碑林博物館に収蔵。
  2. ^ 楊励三「司馬芳残碑」『文物』1965年第9期
  3. ^ a b 『三国志』魏書 武帝紀注『曹瞞伝』
  4. ^ a b 房玄齢等『晋書』宣帝紀
  5. ^ 『晋書』安平献王孚伝
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