騎都尉
前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、秩禄は比二千石であった[1]。宣帝の時から、羽林を中郎将と騎都尉に監督させるようにした[1]。西域都護を兼任することがあった[2]。
後漢でも光禄勲に属し、秩禄は比二千石であった。
それ以降も存続したが、晋においては奉車都尉、駙馬都尉と並んで三都尉と呼ばれて宗室や外戚に与えられ、朝廷の集まりに参加するだけの官となっていた。
唐では勲官の一つとなり、実態は無くなっていた。
注釈と出典
注釈
- ^ a b 『漢書』巻19上、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』50頁。
- ^ 『漢書』巻19上、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』140頁、145頁注14。