蕭 叔宣(しょう しゅくせん)は、中華民国の軍人。南京国民政府(汪兆銘政権)で要職についた。蕭叔萱と表記される例もある[1]。
事跡
辛亥革命に参加した後、1915年(民国4年)、奉天省の陸軍講武堂に赴任した。1926年(民国15年)、中国国民党の北伐において、唐生智率いる国民革命軍第8軍の中で指揮官をつとめる。その後、福建教導旅旅長、駐日大使館武官などを歴任した。1936年(民国25年)、陸軍中将に昇進した。
1939年(民国28年)8月、汪兆銘(汪精衛)の下で国民党中央委員に任じられた。翌年3月、南京国民政府の正式成立とともに、軍事訓練部政務部長に任命され、代理部長となった。あわせて中央政治委員会員と軍事委員会常務委員も兼任している。1941年(民国30年)3月、正式に軍事訓練部部長に昇進する。翌年8月、軍事参議院院長に就任した。1943年(民国32年)9月、中央陸軍将校訓練団教育長に任ぜられる。1945年(民国34年)3月、陸軍部部長となった。
日本敗北直後の8月17日、周仏海の配下である税警局隊長・周鎬率いる南京国民政府税警団の一部が、南京の中央儲備銀行総部の建物を占拠し、南京国民政府軍の武装解除と政府要員の逮捕を開始した(周鎬事件)。このとき、蕭叔宣も税警団に連行されそうになり、抵抗したところ、射殺された。享年52[2]。
注
- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』が、その例。
- ^ このとき、周鎬は陳公博の逮捕も目論んだが、陳を支持する南京軍官学校学生軍により、陳は辛うじて保護された。周鎬が逮捕した政府要員は、支那派遣軍総参謀副長今井武夫の説得により、釈放された。この事件は、周仏海の指示によると疑われたが、本人は一貫して否定したため、真相は明らかとなっていない。以上、劉傑 『漢奸裁判』、155-158頁。一方、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』によると、8月16日に、蕭叔宣は「軍事委員会京滬行動隊南京指揮部」を名乗る人員に襲撃されて深手を負い、19日、死亡した、としている。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉傑『漢奸裁判 対日協力者を襲った運命』中央公論新社、2000年。ISBN 4-12-101544-4。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。