築地大学校
築地大学校(つきじだいがっこう)は、明治初期(1874年(明治7年) - 1876年(明治9年))に東京築地の新湊町に存在したクリストファー・カロザースが設立した英学学校「カロザースの築地大学校」と、1880年(明治13年) - 1883年(明治16年)に築地居留地に存在した英学学校「バラの築地大学校」(ヘボン塾の後身)。それぞれ米国長老派によってつくられた学校だが、別の学校である。明治初期では最高レベルの学校で、都築馨六、尾崎行雄などの明治時代に活躍した人材を育成した。東京大学とも呼ばれた。
歴史
カロザースの築地大学校
- 1869年(明治2年)
- 1870年(明治3年)- 築地居留地6番A宣教師館に、カロザース夫妻が居住[1]。
- 1871年(明治4年)- 築地入船に米国のカロザースが英学指導を目的とする私塾を開く。(1872年(明治5年)発行の『新聞雑誌』第69号において、勤学する者は通学或いは学舎を設けて英学を教授する旨を告知し、広く学生を募集した。)
- 1872年(明治5年)
- 1874年(明治7年) 初夏 - カロザースが従来の英語塾を拡大して、築地居留地に隣接する新湊町4丁目の借家で、寄宿舎付きの英学校である「築地大学校」を設立[1]。教師は、カロザースの他に、スコットランド一致長老教会の宣教師が4人加わった。カロザースの出身校ペンシルベニア州のワシントン大学に倣って化学と宗教を教えた。
- 1876年(明治9年)- カロザースが官立の広島英語学校に赴任し、「築地大学校」が閉校[2]。
バラの築地大学校(バラ学校、ヘボン塾後身)
- 1880年(明治13年)- 築地居留地七番に、同じ「築地大学校」の名を持った学校が、米国長老派の手で開校。以前、横浜にあったヘボン塾の後身である。校長にはジョン・C・バラが就任したのでバラ学校とも呼ばれた[2]。カロザースの築地大学校とは別の学校である。
- 1883年(明治16年)オランダ改革派教会の経営する横浜の先志学校と合併して、東京一致英和学校となる[2]。
学科課程
第一年
- 第一期 読本、会話及び訳読
- 第二期 万国史、会話及び訳読
- 第三期 万国史、会話及び訳読
第二年
第三年
出身者
- カロザースの築地大学校出身[3]
- バラの築地大学校出身
- どちらの大学校か不明
脚注
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参考文献
- 中島耕二, 辻直人, 大西晴樹『長老・改革教会来日宣教師事典』新教出版社〈日本キリスト教史双書〉、2003年。ISBN 4400227405。 NCID BA61764523。全国書誌番号:20531081。
外部リンク
- 発展系統図 – 学校法人明治学院
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