浅野長道

曖昧さ回避 浅野長勲の弟で養子の浅野長道とは異なります。

浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年7月28日[1] - 1912年大正元年)8月4日[1])は、大正から昭和時代前期の政治家愛媛県松山市長。幼名は房五郎[1]

経歴・人物

松山城下八坂町にて浅野長英の長男として生まれる[1]1877年(明治10年)愛媛県師範学校愛媛大学教育学部の前身のひとつ)を卒業後、派駐訓導を務める[1][2]

のち官界に入り、1878年(明治11年)下浮穴郡書記、伊予郡書記として学務係に任じ、1881年(明治14年)下浮穴・伊予郡書記、1886年(明治19年)三野・豊岡郡書記、1887年(明治20年)神奈川県属を経て、1899年(明治32年)温泉郡長に就任した[1]1902年(明治35年)2月7日、市会で推され、松山市長に就任[1][2][3]1908年(明治41年)2月、任期満了に伴い退官した[1]。のち、越智郡長になり,1910年(明治43年)4月に退官した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム、2019年7月7日閲覧。
  2. ^ a b 連載 <まつやま 人・彩時記>⑨ 松山の電話開通の功労者『浅野市長と赤木松山郵便局長』、2019年7月7日閲覧。
  3. ^ 歴代三役 松山市ホームページ、2019年7月7日閲覧。
2005年1月1日編入
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