伊然可汗

伊然可汗(いねんかがん、拼音:Yīrán kĕhàn、? - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗毘伽可汗の長男。姓は阿史那氏、名は不明。伊然可汗とは可汗号で、イネル・カガン(Inäl qaγan)を漢字表記したもの[1]

生涯

開元22年(734年)、毘伽可汗は大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)に毒殺されたので、国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。の玄宗は宗正卿の李佺を弔問に赴かせるとともに、伊然可汗を冊立して碑廟を立てさせ、史官で起居舎人の李融にその碑文を書かせた[2]

しかし、伊然可汗がまもなく病死したので、国人はその弟を立てて登利可汗(テングリ・カガン)とした。

  • 余塞匐

脚注

  1. ^ 『騎馬民族史2』p136,184
  2. ^ いわゆる『ビルゲ・カガン碑文』のこと。

参考資料

啓民可汗587-609 / 始畢可汗609-619 / 処羅可汗619-620 / 頡利可汗620-630 / 乙弥泥孰俟利苾可汗639-644 / 車鼻可汗646-650 / 阿史那泥孰匐679-680 / 阿史那伏念680-681 / 阿史那骨咄禄682-691 / 阿史那默啜691-716 / 毘伽可汗716-734 / 伊然可汗734 / 登利可汗734-741 / 骨咄葉護741-742 / 頡跌伊施可汗742-744 / 烏蘇米施可汗742-744 / 白眉可汗744-745