中条三盛

 
凡例
中条三盛
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 元亀4年/天正元年(1573年
死没 慶長12年5月22日(1607年7月15日
改名 一黒丸(幼名)→資盛(初名)→三盛
別名 通称:与次
墓所 山形県米沢市相生町の極楽寺
新潟県胎内市東本町の大輪寺
主君 上杉景勝
氏族 越後中条氏
父母 父:中条景泰、母:中条景資娘・俊子
兄弟 三盛、資種、資春
盛直、長尾景泰
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中条 三盛(なかじょう みつもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将中条氏22代当主。沼垂郡奥山庄の鳥坂城主。揚北衆三浦党の一人。主家の会津移封後は出羽国置賜郡鮎貝城主となり、関ヶ原の戦いでは最上氏の支城を攻略した。

生涯

元亀4年/天正元年(1573年)、越後国国人中条景泰の長男として誕生。中条氏は相模国の名族で鎌倉幕府創立の功臣、平姓三浦氏和田氏の流れである。

織田氏による攻撃により魚津城で戦死した父に代わり、上杉景勝に所領を安堵され家督を継ぐ。一黒丸は当時まだ元服前の幼年であったものの、中条家家老・築地資豊を名代後見として特例的に相続が認められたものである。

主家の会津移封に従い、1万石と同心分3300石で鮎貝城主となり、関ヶ原の戦い時の最上攻めに水原親憲らと共に出陣している。

その後、上杉家は米沢転封となるが、三盛は石高は3分の1に減ったものの、引き続き鮎貝城主を務める。後に弟や叔父などの親族に分知し、自身の禄は1800石となった。後年、最上攻めの時に受けた傷が悪化し、鮎貝城にて没した。

嫡子である一黒丸(三盛の幼名と同名、後の盛直)が父同様に若年で家督を相続するが、叔父・中条資種と築地資豊の争いが起きたため、一黒丸は米沢城に引き取られることとなる。なお、中条家は幕末まで侍頭執権奉行など米沢藩の重職を担っている。

系譜

出典

  • 史料
    • 『中条家文書』
    • 『越後文書宝翰集 三浦和田氏文書』
    • 『上杉家御年譜』
    • 『越佐史料』
  • 『中条町史』
  • 『奥山庄城館遺跡』水沢幸一(同成社)
  • 『おくやましょう』第11号(中条町郷土研究会、1986年)
  • 『越後野志』上巻

外部リンク

  • 山形大学附属図書館/中条家文書
  • 山形大学附属図書館/中条家文書検索システム
  • 国指定文化財等データベース/中条家文書
  • 国指定文化財等データベース/越後文書宝翰集
  • 国指定文化財等データベース/奥山荘城館遺跡
三浦三つ引紋越後中条氏第22代当主(1582年 - 1607年)酢漿草紋

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