ケリー伯爵 (スコットランド貴族)

1613年にサー・トマス・アースキンが購入し、アースキン家が邸宅としていたケリー城(英語版)。1970年よりナショナル・トラスト・フォー・スコットランド(英語版)所有。

ケリー伯爵英語: Earl of Kellie)は、イギリス伯爵位。スコットランド貴族1619年に初代フェントン子爵トマス・アースキン(英語版)が叙位されたことに始まる。爵位名はスコットランドファイフ州の Barony of Kellie[訳語疑問点] に由来する。

ケリー伯爵は1835年よりマー伯爵が兼ねている。またスターリング城の城代とスコットランドの氏族のひとつアースキン氏族(英語版)氏族長を世襲している。

マー伯爵兼ケリー伯爵の紋章。エスカッシャンの後ろに配置された鍵と杖(バトン)は、スターリング城の城代であることを示す

歴史

アースキン氏族は、ローランド地方レンフルーシャーアースキン(英語版)に起源を持つスコットランドの氏族である。名前が知られている最初の人物はヘンリー・ド・アースキンで、スコットランド王アレグザンダー2世の1226年3月12日付の書簡に証人として名前が見える[1]

第一次スコットランド独立戦争において、アースキン氏族はブルース氏族を支持していた。サー・ロバート・アースキンはスコットランド王デイヴィッド2世によって要衝スターリング城の城代とされ、1350年にはスコットランド宮内長官(英語: Chamberlain of Scotlandおよび北フォースの司法官(Justiciar)にも任命されている。ブルース朝断絶後、アースキン氏族はロバート2世を支持し、ステュアート朝の成立に貢献した。

1435年に第12代マー伯爵アレグザンダー・ステュアート(英語版)[註釈 1]が薨じた後、上記サー・ロバートの孫にあたる初代アースキン卿(英語版)ロバート・アースキンは、母親が第7代マー伯爵ガルトナイト(英語版)の血を引いていたことから継承権を請求した。この主張は当初ステュアート朝の王たちに容れられなかったが、1565年にメアリ1世によって遡る形で認める勅許状が発せられ、第6代アースキン卿ジョン・アースキンは第18代マー伯爵となった。

ガウリー陰謀事件(ヤン・ルイケンによる想像画)。アレグザンダー・リヴァンや第3代ガウリー伯爵ジョン・リヴァン(英語版)らがスコットランド王ジェイムズ6世の暗殺あるいは誘拐を狙ったものとされるが、真相は明らかではない

1619年にケリー伯爵に叙されたトマス・アースキンは、第18代マー伯爵ジョン・アースキンの弟アレグザンダー・アースキン・オヴ・ゴガー(英語版)の息子である。トマスはスコットランド王ジェイムズ6世(後にジェイムズ1世としてイングランド王に即位)と同い年の学友であり、終生にわたる寵臣であった。1600年に発生したガウリー陰謀事件(英語: Gowrie Conspiracyではジョン・ラムゼイ(英語版)(後の初代ホルダーネス伯爵(英語版))とともに首謀者とされるアレグザンダー・リヴァン(英語版)を斬り、没収されたリヴァン家(ガウリー伯爵(英語版)家)の財産の三分の一を与えられている。1604年に「ディーレトンのアースキン卿Lord Erskine of Dirletowne)」、1606年に「フェントン子爵Viscount Fentoun)」へ叙された後、1619年に「ケリー伯爵」へと陞叙された。

初代伯爵の孫にあたる第3代ケリー伯爵アレグザンダー・アースキンはイングランド内戦期の軍人であった。彼は騎士党王党派)に属し、ウスターの戦い円頂党(議会派)の捕虜となり、釈放後は王政復古まで海外に逃れた。3代伯爵の孫である第5代ケリー伯爵アレグザンダー・アースキンは1745年ジャコバイト蜂起においてジャコバイト側につき、プレストンパンズの戦い(英語版)フォルカーク・ミュアの戦い(英語版)カロデンの戦いグレートブリテン王国政府軍と戦い、捕らえられてエディンバラ城へ収監されている。次いで第6代ケリー伯爵となった5代伯爵の息子トマス・アースキンは、音楽家・作曲家として知られる。その弟にあたる第7代ケリー伯爵アーチボルド・アースキンは生涯未婚であったため、爵位は3代伯爵の弟サー・チャールズ・アースキン準男爵の子孫へ継承された。

第10代ケリー伯爵メスヴェン・アースキンが1829年に卒すると、初代伯爵の子孫は断絶した。しかし勅許状には「アースキン家の家名と紋章を帯びる男系男子相続人(“heirs male bearing the name and arms of Earskine”)」への特別継承権(英語: Special remainderが付されていたため、本家筋(初代伯爵の伯父の子孫)である第26代マー伯爵ジョン・アースキンが継承権を主張。1835年にこれが認められて襲爵、第11代ケリー伯爵となった。

26代マー伯爵兼11代ケリー伯爵ジョンには息子がいなかったため、没後ケリー伯爵位とアースキン家の財産は父方の従弟であるウォルター・アースキンが、マー伯爵位は女系の甥であるジョン・グッドイーヴ(襲爵にあたりグッドイーヴ=アースキンへ改姓)がそれぞれ相続した。しかし12代ケリー伯爵はマー伯爵の継承権も主張し、相続争いが発生した。貴族院特権委員会は当初12代ケリー伯爵の主張を認めたものの、最終的に1885年の議会立法により、1565年に6代アースキン卿ジョンはマー伯爵の継承を認められるとともにもう一つのマー伯爵が創設されていたと見做すと決定された。これにより、中世創設の元のマー伯爵をジョン・グッドイーヴ=アースキンが、1565年創設のマー伯爵を第13代ケリー伯爵ウォルター・アースキン[註釈 2]が相続することになった。以後2019年現在に至るまでマー伯爵(1565年創設)とケリー伯爵はその子孫によって保持されている。

ケリー伯爵 (1619年)

  • トマス・アースキン (初代ケリー伯爵)(英語版) (1566年 - 1639年)
  • トマス・アースキン (第2代ケリー伯爵) (1643年没)
  • アレグザンダー・アースキン (第3代ケリー伯爵)(英語版) (1615年頃 - 1677年)
  • アレグザンダー・アースキン (第4代ケリー伯爵) (1710年没)
  • アレグザンダー・アースキン (第5代ケリー伯爵) (1756年没)
  • トマス・アースキン (第6代ケリー伯爵) (1732年 - 1781年)
  • アーチボルド・アースキン (第7代ケリー伯爵) (1736年 - 1795年)
  • チャールズ・アースキン (第8代ケリー伯爵) (1765年 - 1799年)
  • トマス・アースキン (第9代ケリー伯爵)(英語版) (1745年頃 - 1828年)
  • メスヴェン・アースキン (第10代ケリー伯爵) (1750年頃 - 1829年)
  • ジョン・アースキン (第26代および第9代マー伯爵・第11代ケリー伯爵) (1795年 - 1866年)
  • ウォルター・アースキン (第10代マー伯爵・第12代ケリー伯爵) (1810年 - 1872年)
  • ウォルター・アースキン (第11代マー伯爵・第13代ケリー伯爵) (1839年 - 1888年)
  • ウォルター・アースキン (第12代マー伯爵・第14代ケリー伯爵) (1865年 - 1955年)
  • ジョン・アースキン (第13代マー伯爵・第15代ケリー伯爵) (1921年 - 1993年)
  • ジェイムズ・アースキン (第14代マー伯爵・第16代ケリー伯爵)(英語版) (1949年 - )
    • 伯爵位の推定相続人は当代の弟であるアレグザンダー・デイヴィッド・アースキン(Master[訳語疑問点] of Mar and Kellie、1952年生)

脚注

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註釈

  1. ^ ロバート2世の孫で、第11代マー伯爵イザベル・ダグラス(英語版)と結婚し妻の権利によって(Jure uxoris)マー伯爵となった。
  2. ^ 12代ケリー伯爵の息子。裁定前に父親の卒去により襲爵していた。

出典

  1. ^ Paul, James Balfour, Sir [in 英語], ed. (1908). "ERSKINE, EARL OF MAR". The Scots peerage (英語). Vol. 5. Edinburgh: David Douglas. p. 590. 2015年6月27日閲覧

関連項目

  • ウィキメディア・コモンズには、ケリー伯爵に関するカテゴリがあります。