オズワルド・アルディレス(スペイン語: Osvaldo Cesar Ardiles, 1952年8月3日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー。愛称は「オジー」。弁護士資格を持つ事でも知られる。
経歴
選手時代
アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップで優勝したアルゼンチン代表の主力としてダニエル・パサレラ、マリオ・ケンペスらとともにチームを牽引、6試合に出場して、1次リーグのフランス戦、2次リーグのポーランド戦でアシストを決めるなど[1]、地元開催のワールドカップで同国の初優勝に貢献、大会最優秀MFに選出された[2]。1982 FIFAワールドカップでも全5試合にフル出場、ハンガリー戦で1得点を挙げた[1]。また当時の代表は「エース以外の背番号はアルファベット順につける」という慣習があった為、『背番号1を付けたフィールドプレイヤー』としても有名であった。
1978年のワールドカップ後に、リカルド・ビジャとともに、ふたり合わせて75万ポンドの大金でイングランドのトッテナム・ホットスパーに移籍、トッテナムで約10シーズンプレーした 。1979年ジャパンカップ(現キリンカップ)で来日、日本代表と対戦した。1980-81シーズンにはFAカップ獲得に貢献、1981-82シーズンのFAカップでも準決勝のレスターシティ戦で1ゴールを挙げるなど、決勝進出に貢献[3]。 同年、イングランドとアルゼンチンの間にフォークランド紛争が発生したため、混乱を避けるためにフランスのパリ・サンジェルマンにレンタル移籍した。トッテナムでは1984年にUEFAカップ優勝に貢献。その後クイーンズ・パーク・レンジャーズやアメリカで短期間プレーした後、現役を引退した。2008年トッテナムの殿堂入りを果たす[4]。
監督時代
1990年、イングランド2部のスウィンドン・タウンの監督に就任した。それまでのキック&ラッシュの攻撃スタイルを一新し、南米的なパスサッカーを試みた。[要出典]1部昇格を決めたものの、クラブの不正経理の疑いで昇格は取り消された。ニューカッスル・ユナイテッドの監督は1年も経たずに解雇されたが、ウェスト・ブロムウィッチでは1部昇格を果たした。そして1993年、混乱が続いていた古巣トッテナム・ホットスパーの監督に就任した。ドイツ代表のユルゲン・クリンスマンやルーマニア代表のゲオルゲ・ポペスクらを獲得したが、チーム状態は良くならなかった。成績は残せなかったが、ファンに愛された監督だった。
メキシコを経て、1996年には清水エスパルスの監督として来日。その年のナビスコカップでチーム初のタイトル獲得に貢献した。1998年は、ファーストステージでは、優勝争いに加わり2位に終わる。セカンドステージでは、5位に終わる。リーグ戦終了後、天皇杯を前に解任された。1999年は、クロアチアのNKディナモ・ザグレブの監督に就任したが、1999年の夏に成績不振を理由に解任される。
2000年には横浜F・マリノスの監督に就任し、その年の第1ステージで優勝。2ndステージでは、調子が上がらず5位に終わる。チャンピオンシップでは、鹿島アントラーズに敗北。翌2001年に成績不振に陥り、また外国人選手の補強を巡ってフロントと対立し解任された。
横浜F・マリノスを去ったあと、アル・イテハドの監督に就任したが、成績不振で解任された。
2002年には、ラシン・クルブの監督に就任。
2003年には東京ヴェルディ1969の監督に就任。2004年度天皇杯で、東京Vに8年ぶり(東京移転後は初めて)のタイトルをもたらした。しかし2005年シーズンに大量失点試合が響き、7月成績不振の責任を取って解任された。
2012年、J2・FC町田ゼルビアの監督に就任したが、2012シーズンのJ2で最下位となりJFLへの降格が決定。同年11月17日、監督を解任された[5]。
エピソード
- トッテナム在籍中、イギリスとアルゼンチンの間でフォークランド紛争が起こったが、この時トッテナムファンから「オジーが残ってくれるなら、フォークランドはアルゼンチンにくれてやらなくもない」といった意味の横断幕が出るほど、[要出典]トッテナムのサポーターから愛された存在だった。
- 1981年に公開されたシルヴェスター・スタローン主演映画、『勝利への脱出』にペレ、ボビー・ムーア、マイク・サマビー、ジョン・ウォークら当時のサッカー界のスター選手達と共に連合軍捕虜チームのプレーヤー役で出演、1ゴールを決めた。
- 1999年のクロアチア・ザグレブの監督就任時には、当時、三浦知良が所属していたものの「カズのことは知っているが、戦力とは考えていない」とメディアを通して発言した。[要出典]結局、三浦は退団することとなった。
- 2012年年の町田は、選手の入団が決まった後に、監督人事を行っていたこともあり[6]。東京ヴェルディ、清水エスパルスの時の教え子である戸田和幸に対して、2月のキャンプにて戦力外通告を言い渡し、ほぼ起用しなかった[6]。
- 趣味は読書、チェス、オペラ観賞である。[要出典]
所属クラブ
指導歴
個人成績
年度 | クラブ | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | リーグカップ | カップ戦 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1970 | インスティトゥート | プリメーラ | | | | | | | |
1971 | | | | | | | |
1972 | | | | | | | |
1973 | | | | | | | |
1974 | ベルグラーノ | | 16 | 2 | | | | |
1975 | ウラカン | | | | | | | |
1976 | | | | | | | |
1977 | | | | | | | |
1978 | | | | | | | |
1978-79 | トッテナム | FL1部 | | 38 | 3 | | | | |
1979-80 | | 40 | 3 | | | | |
1980-81 | | 36 | 5 | | | | |
1981-82 | | 26 | 2 | | | | |
1982-83 | | 2 | 0 | | | | |
1982-83 | パリSG | ディヴィジョン・アン | | | | | | | |
1983-84 | トッテナム | FL1部 | | 9 | 0 | | | | |
1984-85 | | 11 | 2 | | | | |
1985-86 | | 23 | 1 | | | | |
1986-87 | | 25 | 0 | | | | |
1987-88 | | 28 | 0 | | | | |
1987-88 | ブラックバーン | FL2部 | | 5 | 0 | | | | |
1988-89 | クイーンズ・パーク | FL1部 | | 8 | 0 | | | | |
1989-90 | スウィンドン・タウン | FL2部 | | 2 | 0 | | | | |
1990-91 | | 0 | 0 | | | | |
通算 | プリメーラ | | | | | | |
FL1部 | 248 | 16 | | | | |
FL2部 | 5 | 0 | | | | |
ディヴィジョン・アン | | | | | | |
タイトル
選手時代
- トッテナム・ホットスパーFC
- アルゼンチン代表
- 個人
指導者時代
- 清水エスパルス
- 横浜F・マリノス
- 東京ヴェルディ1969
- 個人
脚注
- ^ a b “Ossie Ardiles Nationalteam”. 2023年9月12日閲覧。
- ^ Ardiles 2009, p. 6
- ^ ワールドカップ参加の為決勝には出場せず。
- ^ “Hall of Fame”. Tottenhamhotspur.com. 2010年6月29日閲覧。
- ^ “オズワルド・アルディレス監督 退任のお知らせ”. FC町田ゼルビアオフィシャルサイト. http://www.zelvia.co.jp/news/news-22586/ 2012年11月18日閲覧。
- ^ a b “置かれた環境で悩むすべての人へ 干されてもがき、信念を貫いた元日本代表の言葉”. SOCCERKING. 2023年9月12日閲覧。
関連項目
外部リンク
- オズワルド・アルディレス - National-Football-Teams.com (英語)
- オズワルド・アルディレス - Soccerway.com (英語)
- オズワルド・アルディレス - Soccerbase.comによる監督データ (英語)
- オズワルド・アルディレス - FootballDatabase.eu (英語)
- オズワルド・アルディレス - WorldFootball.net (英語)
- オズワルド・アルディレス - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- オズワルド・アルディレス - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- オズワルド・アルディレス - FIFA主催大会成績 (英語)
- オズワルド・アルディレス - J.League Data Siteによる監督データ
- オズワルド・アルディレス - レキップ (フランス語)
アルゼンチン代表 - 出場大会 |
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アルゼンチン代表 - 1978 FIFAワールドカップ 優勝 (1回目) |
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アルゼンチン代表 - 1982 FIFAワールドカップ |
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1995年-2016年は「最優秀監督賞」、1993年-94年,2017年-は「優秀監督賞」 |
最優秀/優秀監督賞 | |
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優勝監督賞 | |
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- Jリーグアウォーズ
- 最優秀選手賞
- JB11
- 得点王
- JBYP賞
- JFP個人賞
- J2MEP
- 功労選手賞
- 最優秀監督賞
- 最優秀主審賞
- 最優秀副審賞
- JBP賞
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監督歴 |
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東京ヴェルディ1969及びその前身チーム歴代監督 |
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読売サッカークラブ | |
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ヴェルディ川崎 | |
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東京ヴェルディ1969 / 東京ヴェルディ | |
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典拠管理データベース |
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全般 | |
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国立図書館 | |
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